タイ津波経験 (12月2004年)
日本の冬はとても寒いので温かい所に旅行したいと思いました。ビーチでのんびりしたかったのです。12月18日に成田空港から出発しました。次の朝にタイのプーケットに着きました。プーケットのカタノイビーチの小さいホテルに3泊しました。ビーチはとてもきれいでした。それからパトングのカタビーチで遊びました。
22日にフェリーでプーケットからピピ島に行きました。ピピ島はきれいな島ですけれど船でだけ行くことができます。そこではLeonardo Di Capprioの”ザ・ビーチ”という映画が撮られました。私はピピチャリーリゾートのバンガローに泊まりました。2日間カヤックをしたり、セーリングをしたり、ロッククライミングをしたり、スノーケルをしたりしました。高い崖ときれいな浜なのでびっくりしました。正直にそこは極楽だと思います。島は小さいからたくさん人と会います。それで人々と早く友達になります。
24日、クリスマス・イブ、にフェリーでピピ島からクラビのアオナンに行きました。クリスマスなので良いホテルに泊まろうと決めました。ホテルは丘の上にあったため景色がきれいでした。クリスマスの朝に朝食を食べてそれから船でライレ・ビーチに行きました。ライレ・ビーチはりっぱな半島で、島全体がとても高い絶壁と白い砂浜で囲まれています。景色は本当に美しいです。そこで散歩して昼食を食べてそれからカヤックを借りました。カヤックで小さい島や浜や洞窟に行きました。その後船でアオナンに戻りました。ホテルで夕食を食べて、おみやげの買い物をして、バーに行きました。ビリヤードをしていた時私のバッグを盗まれました。私のバッグ、が盗まれたのです!そのことが私を不愉快にさせました。その後ホテルに戻りました。それはタイでの最後の夜でした。次の日飛行機に乗って日本に帰るはずでした。
26日に起きて朝食を食べました。船でロッククライミングをしに行くつもりでしたが、しかしおみやげが盗まれたのでアオナン・ビーチに買い物をしに行きました。店で買い物をしていてそれで店から出て海を見た時何か違うと思いました。地平線に長く白い線が見えました。その白い線は地平線の端から端まで広がりました。よく見てみてから波のことが分かりました。それが津波だと確信しました。地震を感じませんでしたが私が今まで見た波の中でそれは一番長い波でした。信じられませんでした。海と船はよく知っています。でも津波は見たことがありません。
防波堤まで歩いて、そこで津波を見ていました。津波はゆっくり来ていたらしいです。でも本当に津波は遠くてなかなか来ませんでした。店員は店を閉め始めました。防波堤に観光客と町の人は集まり始めました。湾に船は逃げ出しました。津波はだんだん大きく成ってかぶさり始めました。落ち着いてどうするべきかと考えました。見回して立っている所が安全ではないことが分かりました。そこは逃げにくい所でした。ここはだめだから丘の下に走りましょう。そこから津波を見ようと言いました。丘の下まで道に沿って走りました。そこから津波を見ました。その丘の上に私のホテルがありました。その時津波は5メートルか6メートルぐらいでした。ハワイの大きいサーフィンの波と似ていました。でもこの波のほうが強かったしまだ来ていました。止まっていませんでした。津波は湾にある船を破壊しました。一つ大きなヨットだけ逃げられました。最初は干潮と似ていました。それでも最初の波が来たので満潮以上に成りました。次の波は防波堤にぶつかりました。最初防波堤は私を守っていました。しかしすぐ波が防波堤を越えて来ました。道や店やレストランに充満しました。水は足まで来た時丘を登ったほうがいいと思いました。まずホテルでチェックアウトをしてみてそれから飛行機を乗って見ようと思いました。防波堤なのでアオナンは運がよかった。でも防波堤がありませんため確かにピピ島とライレ・ビーチはだめでした。カヤックをする人とスノーケルをする人もはだめだと思いました。
ホテルに戻りました。その時にたくさん人は海岸に行きました。彼らは写真を取ったり、いろいろ物を探したり、船を直したりしていました。海は静に成りました。しかしのほうが大きい津波が来ました。今度津波は早速防波堤を越えて来ました。たくさん人はつかまえられました。ホテルには誰もが津波が来たことがぜんぜん知りませんでした。教えた時みんなはびっくりしました。津波だから停電でした。ビーチの道は閉まりませんでした。サイレンだけを聞こえました。
チェックアウトをして、丘の上店で昼食を食べて、空港に行ってみました。それから運転者は洪水なのでプーケット空港は閉まったと言いました。そのためにクラビ空港行っていました。私はさっぱり分かりませんでした。ホテルに電話してフロントの人はクラビ空港から出発してみたほうがいいと言いました。でも便がありませんでした。フロントの人はぜったい私は部屋を見つけてあげますと言いました。ホテルの職員は本当に優しかったです。彼らは部屋を見つけて次のひの便を変更して手伝ってくれました。
その夜ビーチに戻りました。ビーチで救援隊は仕事していました。瓦礫とどろはどこにもありました。津波はたくさんホテルや店やレストランにわたって損害をあたえました。でも防波堤はアオナンを大抵守りました。もし防波堤がなかったらぜったい損害はのほうが悪いです。それでもピピ島を考えました。ピピの町は平らな地峡だからぜったい荒らされたと思いました。損害を思い描けませんでした。これはすごい問題です。それからインターネット・カフェと国際電話を探しました。アメリカには朝がすぐ来て家族はニュースで津波のことをみると思いました。私は冒険好きだから家族がとても心配すると思いました。
その夜は静だけどたまにサイレンを聞こえました。岩手の友達が偶然出会いました。それから一緒にちょっと飲みました。彼は船にいました。船にたくさん時間を待ちました。それからアオナンに戻った時彼は損害を見ました。
次の日ビーチに戻ってもう掃除を始めました。朝食の後にバンで空港に行きました。その時学校が病院に成ったことを見ました。ヘリコプターは被害者を連れて来ていました。空港に着いてけどとても込んでいました。彼らはみんな出発してみていました。チェックインはとても大変でした。空港にタイ人は水と軽食をただであげていました。それで医療活動がありました。タイ人は気前のよいのことを感動させました
それから私は岩手に長い帰りはじめました。後でニュースを見た時災害の範囲が分かりました。津波は私のプーケットのホテルに損害を与えてピピ島のホテルはすっかり破壊させました。今建物がありません。会った人はどうのことをよく考えます。それでもしその日私はロッククライミングをしたらかまだピピ島にいたらのことを考えます。岩手に帰って来た時タイを思い出すので一周間ぐらい荷物を解けませんでした。